今回は、「がん」による余命宣告を受けても、恐怖心に打ち勝って、今なお輝いている女性、ますい志保さんの「病気と向き合う人たちへのメッセージ」、そして彼女が今考える「生きる」意味を見つめます。

ワタシのあの頃
生活のためにホステスの世界へ。“銀座に骨を埋める”という覚悟で働く

 ますいさんは、家庭の事情により15歳で自活を始め、18才の頃には、夜の銀座で働いていました。昼間は大学に通い、夜はホステス、土日の昼間は別の仕事…と、生活費と学費をかせぐために必死だったのです。

 ほかの職業に憧れた時期もあったようですが、26才のときには、双子の妹・さくらさんと一緒に「ふたご屋」を開店しました。それまでの銀座のクラブのスタイルをがらりと覆すようなルールで切り盛りしていました。

私は銀座に骨を埋めるつもりで店を始めました。なんとなくこの世界で生きている人も多い中で、覚悟があったし、真剣でした。ずっと苦しい時代を生き抜いてきましたから、多少つらいことがあっても、苦しいとは思いませんでした。
 
むしろピンチはチャンスに転換できると思ってやってきました。ドヤ街から出てきましたから、根性が違うんです(笑)。
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 生活のために、銀座で力強く生きるますいさんは、ホステスとしてだけでなく、執筆やテレビ出演など、多方面で活動して人々に知られるようになりました。周りから(女性なのに)「たくましい」「強い」「かっこいい」などと騒がれることもあったかと思いますが、本人にしてみれば、至極あたりまえのことだったのかもしれません。
 
 そもそも「つらい」の前提も「頑張る」の前提も、平和で裕福な家庭に育った人とは大きく違うものだったのでしょうから……。

変わったきっかけ
「余命半年」という宣告。闘病記を書き始める。「潔く闘ってみせる!」

 1999年の春頃のことです。子宮からの不正出血があり、病院で検査をしてもらいましたが結果は「シロ」。そのまた1年後に同じ病院を訪ねたら「子宮内膜症」と診断されました。

 当時は雑誌等の連載や、テレビのレギュラー番組もあったので、「仕事に穴をあけられない」と、市販の痛み止めを1日1箱飲み切るような生活をしていました。

 そして、34歳の春、刺すような痛みに襲われて病院へ。子宮体がんの疑いがあると診断されたのでした。

一生懸命に生きてきたのにどうして?
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「(余命は)あとどのくらいですか」と聞くと、「放っておけば半年」。現実感がなくて、まるでお芝居を見ている感じがしました。
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 症状は、「末期の手前」という厳しい状況。ますいさんは「子宮摘出手術に挑むこと」を決意。そして手術は成功しました。ところが……1週間後に転移が発覚したのです。

「退院したら、あれをやろう」、「これをやりたい」という事ばかりを考えていました。そのおかげで気持ちが前に向きましたし、元気になっている自分のイメージが膨らみましたから。どんな状況にあっても夢を描くことは大切だと改めて実感しましたね。
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 不安に押しつぶされそうになりながらも、ますいさんは、闘病生活を女性誌で包み隠さず執筆しました。読者からたくさんの千羽鶴が届いたり、通りがかりの女性にエールをもらったりしたこともあったそうです。ますいさんは、「生きて帰らないと」と強く思いながら、抗がん剤治療、ホルモン治療とリハビリを続けました。

闘っている姿は美しい。それを恥ずかしいとか、みっともないと思うんじゃなくて、私は潔く闘いたいと思いました。
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 そして闘いから5か月、ますいさんはついにがんに打ち勝ったのです。

 「女性なのに“勝利へのこだわり”を見せることは恥ずかしいことなのでは?」と思う人も、中にはいるかもしれません。闘う相手が人ではなくて、たとえ「病」や「死」というものであったとしても、です。たしかに闘う相手がどんなものでも、ひらりと華麗にかわせるならば、それでもいいかもしれませんが、ますいさんを襲ったのは、とてもかわしがたい現実でした。
 
 その相手を正面から受け入れて、自分の中で整理して、病という敵に対してどうすれば「勝てる」のかということを自分の決断で推し進めることは苦しいに違いありません。だからこそ、ますいさんの書いたものの行間に込められている意味は果てしなく深いもののように感じます。