「異人から一夜にして有名に」聴力を失ったピアニスト・フジコ・ヘミングが困難にくじけず進みつづけるワケ【前編】

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 今回は、聴力を失ったピアニスト、フジコ・ヘミングが、数々の困難を乗り越え、ピアノと共に歩んできた壮絶な人生を見つめます。

ワタシのあの頃
有り余る才能を持ちながらも、報われない辛く苦しい日々

 フジコ・ヘイング(イングリット・フジコ・ゲオルギー・ヘミング)は、母親が日本人、父親がロシア系スウェーデン人、そして出生地はドイツのベルリン、という複雑な環境のなか産声を上げました。 幼い頃より母の手ほどきでピアノを始め、小学校の頃からその才能が注目されはじめます。

10歳から、父の友人だったロシア生まれドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツアー氏にも師事。クロイツアー氏は、「フジコはいまに世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう」と絶賛した。
出典:http://fuzjko.net/profile

 そして、高校在学中にデビュー・コンサートを成功させ、その後も数々の賞を手にしたフジコ。28歳で念願のピアノ留学のためドイツに渡るものの、当時の国籍などいろいろな事情により「赤十字に認定された難民」という特殊な立場だったことから、辛く厳しい日々が続いたといいます。

日本では「異人」といじめられ、生まれたドイツでは「東洋人」と見られ、日本人の留学生からは「よそ者」とされて仲間に入れてもらえない・・・。「どうして? 私の故郷はどこ?」抱いていた夢が消えそうだった。
出典:http://the5seconds.com/piano-fujiko-1052.html

 やがて、世界的指揮者バーンスタインからの協力もあり、ウィーンでのリサイタルへの出演が決まります。ようやく一流のソリストとして認められる機会に胸が躍りますが、直前に風邪をこじらせ、聴力を失うという最悪の事態に――。
 長い努力の末にやっと届きかけたまぶしい夢は、怖しい悪夢と化してしまったのです。

せっかく掴んだ最高のチャンスを逃してしまい、毎日、泣いて過ごした。悪魔のせいだ、もう終わりだと思った。
出典:http://the5seconds.com/piano-fujiko-1052.html

 小学生の頃にラジオでピアノを披露し、17歳でデビューを果たすなど、ピアニストとして輝かしい未来を約束されていたように見えるフジコ。きっと、当時は誰も、その後これほどイバラの道を歩むことになるとは、想像もしていなかったでしょう。

 28歳という、決して早いとは言えない年齢で留学してからも、孤独にさいなまされ、貧しさにろくに食事も出来なかった日々。そして、目の前で奪われた唯一とも言えるチャンス――。
 もし自分だったら……と考えると、フジコのようにピアノを続けることはできなかったかもしれません。

変わったきっかけ
テレビ出演をきっかけに、一夜にして誰もが知るピアニストへ

 それでもフジコはピアノを弾くことをあきらめることなく、数年かけて耳の治療をしながらピアノ教師やコンサート活動を続けます。
 そして、1999年2月、とあるテレビのドキュメンタリー番組でその壮絶な軌跡を取り上げられたことがきっかけで、フジコの人生はまたたく間に変化しました。

 多くの苦難を乗り越えたフジコの演奏は視聴者の魂を揺さぶり、大反響を巻き起こします。一躍有名になったデビューアルバムは累計200万枚を超える異例のヒットとなり、今では誰もが知るピアニストとして、世界の名だたるオーケストラと共演しています。

2000年以来、モスクワフィルハーモニー管弦楽団、ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団、ハンガリー放送交響楽団、ベルギー国立管弦楽団、イギリス室内管弦楽団他と共演。2001年6月には、ニューヨーク・カーネギーホールでのリサイタルに3000人の聴衆が会場を埋め尽くし、感動の渦を巻き起こした。
出典:http://fuzjko.net/profile

私の人生はこの風邪のせいで狂ってしまった。あのリサイタルが成功していればと思う。誰にも不幸はあり、全部いいことばかりの人はいない。だから大事なことは、失敗や不幸に負けず、どう乗り越えていくかね。私の場合は、ただ正直にピアノを弾き続けてきた。
出典:http://the5seconds.com/piano-fujiko-1052.html

(小森矢 羽美)

▶▶【後編へ続く】:「ピアニストは機械じゃない!」聴力を失ったピアニスト・フジコ・ヘミングが困難にくじけず進みつづけるワケ【後編】

新たな “視点” で、
昨日よりもちょっといいワタシに。
―――― eyes.+