【後編】どうして女性は張り合うのか。華岡青洲の麻酔薬研究を支えた妻、加恵と姑の「命を削る争い」

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ワタシの信念
姑亡き後の安らかな心を打ち砕く妹の言葉。「勝った」後ろめたさに縛り付けられた生涯

 華岡家の周辺は、青洲の乳がん手術成功に湧き立っていました。しかし、亡くなった小陸の「それは嫂さんが勝ったからや」という言葉が、加恵の脳裏から離れません。
 失明というリスクで、加恵は青洲の心を勝ち取ったと感じました。そして姑の死と共に、それまでのわだかまりも勝ち誇る気持ちも、引き潮のように退いて穏やかな日々を過ごしていました。
 それなのに、嫁姑の目に見えぬ確執と加恵の涙、冷たい応酬をすべて見ていた唯一の女、小陸に、心の土台を揺るがされたのです。
 加恵は「青洲の成功の影の功労者」「身を挺した賢妻」という賞賛を好まず、寡黙に老いて亡くなりました。

 失明は、加恵に「青洲の研究における絶対的な犠牲者であり功労者」という勝利をもたらしました。さらに姑の死によって、加恵は永遠に勝ち抜けました。
 でも彼女は、そのことに気付こうとはしませんでした。
 小陸の言葉は、心の平安をもたらしたのが勝利の甘い心地良さだということを、加恵に気付かせたのです。

 加恵の母は、加恵にこう語り、姑の仕打ちに泣く娘を落ち着かせます。

「嫁のお産には五体揃うた孫が無事に生まれますようにとそればかり一心不乱に念じてました。(中略)それが吾が娘のときには(中略)生れる孫よりあんたの無事を願っている。このくらい違うのやもの、家の嫁さんもたいがい苦労をしたろかいのう。」
出典:『華岡青洲の妻』

 於継という華やかな女、そして加恵という悲劇のヒロインにスポットを当てたこの作品ですが、小陸や加恵の母のような、地道に自分を生きた女性の言葉にはっとさせられます。

 他人ばかりの家へ嫁として入り、絶対的権力者である姑にいじめられることは、とてもつらい経験です。
 また、かたや夫、かたや息子という「唯一の男」を争奪する、熾烈な戦いでもあります。
 加恵のように姑に勝利し一時の安寧を得ても、いずれは自分が姑となり、嫁と冷戦を繰り広げる日が来るでしょう。

 嫁に対して絶対的優位に立ち、自信が揺るがなければ、嫁を敵視する必要はありません。しかし於継は気付いていたのです。
 自分が夫や子たちにとって絶対の存在であるように、いまだ小娘にすぎない嫁もまた、この家の絶対的な存在になっていくのだということに。
 そして、自分は嫁より数十年も早く老い、下剋上の時は必ずしも遠い未来ではないということに。

 嫁姑に限らず、職場の同僚、先輩後輩、ママ友、そして姉妹や、実の母娘の間でも、こうした女の冷戦は起こります。
 そんなとき、小陸のように「二度と女には生まれ変わりとう思いません」(『華岡青洲の妻』より)と、争いの醜さをはっきり指摘してくれる人や、加恵の母のように姑の立場から嫁の心を思いやる優しさ――柔軟な想像力を持つ人の存在は貴重です。
 自分を本当に苦しめているのは、勝ち負けに囚われた価値観――自分を怒りと恨みの連鎖で縛り付けているのは、自分自身ということに気付くカギとなるかもしれません。

 恨む相手を許すのは、難しいことです。心に秘めた痛みを忘れるのは、悔しいことです。
 自分が恨みを忘れ、怒りを手放してしまったら負け。そう感じる人は少なくないでしょう。
 加恵は勝ったことで嫉妬と悔しさの苦しみから解放されました。しかし、生涯その後ろめたさにさいなまれます。
 勝ったにも関わらず、加恵は嫁姑の煉獄から抜け出すことなく死んでいきました。

 華岡青洲が活躍した江戸時代、男尊女卑の封建社会の中で生きる女性に自由はほとんど与えられていませんでした。
 女に生まれれば嫁に行き、嫁姑の確執の中で生きていかなければなりません。それが嫌なら、小陸のように嫁がず、生家の稼業へ一生を捧げるしかありませんでした。

 でも、時代は変わりました。男と女の心の在り様は変わりませんが、現代に生きる私たちは、多角的な人生をみずから選ぶことができます。
 確執やわだかまりは、近しく親しい相手であるほど是非を超えて許せないもの。だからこそ、世界は閉ざされたように感じますよね。
 でも、私たちに与えられている世界は広いのです。一角が暗く閉ざされてしまったら、別の方角を向くだけで、受け入れてくれる場所も人もいるはずです。
「負けたくないから許せない」の連鎖に気付き、一瞬でも上を見ればきっとそこに、光は差すのではないでしょうか。
(河野真知子)

キラリと輝く名言

男と女というのは、この上なくおそろしい間柄なのよ。

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新たな “視点” で、
昨日よりもちょっといいワタシに。
―――― eyes.+